絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

読みかたりの動画配信について

ここ3ヶ月ほどちょびっとクラブのおはなし会は休止していますが、その間、「オンラインちょびっとクラブ」をやろうとか、読みかたりの動画配信をやろうという意見はなく、メンバー誰もやるつもりはありません。

代わりに、今までのように各回のテーマに合わせてSNSのグループで定期的に絵本紹介をしたり、絵本関連の面白い記事を見つけたらシェアしたりということをしています。

 

なぜ、オンラインや動画配信をしないのか。

それは、活動の主旨にそぐわないからです。

幼児向けの手遊びや読みかたりはライブでやることに意義があります。

 

15年ほど前に、アメリカの小児科学会の提言を受けて、国内の小児科学会でも乳幼児へのテレビ視聴を制限した方が良いという発表がなされたことをご存知の方も多いと思います。

これについては未だ慎重な議論が繰り広げられているようですが、専門家の意見を待たずとも、私たちは経験的に次のような問題に気付いているのではないでしょうか。

すなわち、長時間発光する画面を見続けるという、自然界にはない体験、双方向のやり取りではない、一方通行の発信のみというコミュニケーション上極めて不自然な方法などです。

これらが人生経験の浅い乳幼児へ与える影響を危惧することは、動物の一種としての人間にとって、自然な感覚ではないかと思います。

 

読みかたりの動画を乳幼児に見せるということは、このテレビの前に子どもを据え付けておくこととほとんど変わりない行為だと私は思います。

物質としての絵本が持つ立体感を感じられない、発光する平面を眺めながら、スピーカーを通した声で物語を聞く。しかも、自分の「読む」ペースとは関係なしに進んでいく。

およそライブでの読みかたりとはかけ離れたものです。

 

ライブでの読みかたりでは、子どもたちは読み手や絵本との距離を、立体的に目視することができます。その上で、どの位置に座ればこの時間を有意義に楽しむことができるか、自分で距離を考えて場所を選ぶことができます。

絵本が始まると、読み手は聞き手の様子を見ながら、聞き手のペースで読み進めていきます。そこで、聞き手の子どもたちは笑顔や発見したという静かなアクションや、疑問の表情など、絵本や読み手に働きかけながら絵本の中に入っていくことができます。そして、時々、読み手からそれらの反応に対する返答を受けることもできます。

絵本の画面は発光しないので目に負担をかけず、語られる声もスピーカーを通さないので耳に優しく響きます。

動画配信での読みかたりと、ライブでの読みかたりは全く別物なのです。

 

それでは、オンラインでの手遊びや読みかたりではどうでしょうか?

一方通行のコミュニケーションから双方向へという点では、動画配信のデメリットをカバーしていますが、ただ、それだけのことです。

わざわざ私たちが画面の前で手遊びや読みかたりをせずとも、子どもと触れ合える距離にいる人が、子どもと向い合わせで手遊びをしたり、そばで絵本を読んだりした方がずっといいのです。

 

ですから、私たちは、この直接会えない期間、絵本の紹介や子育てに役立つ情報の発信はしても、オンラインでの読みかたりや動画配信はしないのです。

 

読みかたりの動画は、大人が利用する場合に限っては有効だと思います。基本的に読みかたりは音声訳や朗読ではありませんので、正確なアクセントやイントネーションにこだわる必要は全くありません。しかし、絵本を声に出して読んだことがなく、どうやれば良いのか全く自信がない、という人が動画を見ると、読みの参考になるかもしれません。

ただし、中には聞き手のことを考慮していないひどいものがありますから、せっかくならアナウンサーによるものなどの基本的な読みがしっかりとしたものが良いでしょう。(ちなみに、許諾なく読みかたりの動画配信をすることは、著作権法上の公衆送信権侵害に該当しますので、無許可の動画にご注意ください。)

 

この記事を読まれる方にとっては「常識」かもしれませんが、プロのアナウンサーや今まで会ったこともない読みかたりの人の読むライブの読みかたりよりも、普段子どものそばにいる大人からの読みかたりの方がずっと良いのです。なおのこと画面越しの読みかたりを見せる必要は全くありません。

お近くに読みかたりの配信動画を躊躇なく子どもに見せている方がいたら、さりげなくそのことを知らせていただけると嬉しいです。

 

 

絵本の対象年齢

3月から、ちょびっとクラブの活動が休止しています。

そのため、ちょびっとクラブでは読まないような種類の絵本まで幅広く読んでいます。

そのような中、気になることがありました。

それは絵本の対象年齢についてです。

 

多くの絵本には、対象年齢の目安が載っていることにお気付きでしょうか。

一口に絵本と言っても、さまざまなジャンルがあります。また、子どもは大人と違って、心身共に急激に成長していく途上にあります。

そのため、その時期にふさわしい絵本というものがあるのです。

例えば、いわゆる赤ちゃん絵本と呼ばれるジャンルのものを思い浮かべてください。

ストーリーらしきものよりも、ことばの響きや絵の分かりやすさといったものに重点が置かれていると思います。

これらの本は、0歳の赤ちゃんから楽しめます。

しかし、登場人物やストーリー展開がしっかりとしている絵本を赤ちゃんに見せたらどのように反応するでしょうか。

おそらく、細かい絵を見づらいと感じたり、複雑なストーリーを追えずに何が面白いのか分からなかったりするのではないでしょうか。それらの本には良く見ると、「3歳から」とか「5歳から」といったような文字が裏表紙についていることがあります。

これがその絵本の対象年齢なのです。

 

もちろん個人差というものがありますから、対象年齢というものはあくまでも目安です。

「5歳から」と書かれている本を3歳でも楽しめる子もいるかもしれません。

それはその子の読書歴や興味関心を見極めて、勧めてみれば良いのです。

日頃絵本を読みつけている大人は、対象年齢を確認しなくても、そのあたりの塩梅が分かっているので、大きな間違いは犯さないものです。私も今まであまり気にしたことがありませんでした。

 

ところが、最近、絵本を選ぶ際に、この対象年齢というものを意識した方が良いのではないかと感じています。

というのも、年齢と選書のミスマッチという問題があちこちで生じていることに気付いたからです。

しかも、読者の側のミスだけではなく、そもそも出版社が付けた対象年齢の目安に首を傾げざるを得ない場合もあり、なかなか複雑な問題です。

混乱を避けるために、とりあえずは出版社の対象年齢が適切な場合に限ってお話しします。

 

「ロングセラーだから」「評判が良いから」といった理由で、幼児向けのストーリー絵本の傑作を赤ちゃんに読んで聞かせて、反応がイマイチだった、期待外れだった、評判より良くないという方がいるようです。

はやる気持ちは分かりますが、子どもがもう少し大きくなるまで待ってくださいと言いたくなります。

このような人はまあ、少数派のようですが、子どもが少し大きくなると、もう少し多くの方が、ずいぶんと子どもに背伸びをさせてしまうことがあるようです。

 

一般的に、大多数の絵本は、6歳頃つまり就学前までの読者を想定し、その世代までの発達段階や興味関心を考慮して作られています。

ところが、私も含め、大人の愛読者も多いのが現状です。

そのためでしょうか、世の中には対象年齢「中学生以上」「一般向け」という絵本も出版されています。

しかし、「絵本は子どものもの」という先入観があるためか、そのような「R12」(映画のレイティングのPG12ではなく!)「R18」的な絵本に注意を払う人は少ない気がします。

書籍にはごくごく一部を除いて、年齢制限という概念がそもそもありませんから無理もないことかもしれません。

 

このような「子ども向けではない」絵本にはどのような特徴があるでしょうか。

お察しの通り、だいたい次のような特徴を1つ以上備えています。

・残酷な表現が含まれる。

・性的な表現が含まれる。

・比喩的な心理描写を具象化しており、しかもそれがホラー的要素を含むなど、幼児期の子どもが読むのに相応しくない。

 

この中で一番注意が必要なのは、2番目の要素が入った絵本でしょうか。

なぜなら、残酷な表現が含まれる絵本や、ホラー的な絵本は、だいたい表紙を見ただけで「お子様お断り」的な雰囲気を醸しています。

ところが、性的な表現が含まれる絵本は、子ども向けの絵本と同じような表紙のことがあるのです。

このような絵本のうちのある一冊が、その性的なごく一部のシーンを除くと、小学生位の子どもでも楽しめる要素があり、そこそこ有名で、多くの小学生に読まれているようです。

そもそも、性的なシーンがあるということは、全体的な内容も大人の視点から描かれていて、子どもが読んでも表面的なことをさらうだけですから、わざわざ読まなくてもよいものです。

しかも、それをあまり問題だと思っていない大人が多いことが気になります。

せっかく出版社が対象年齢を示しているのに、「絵本は子どもが読めるもの」という先入観があるのでしょうね。

 

書物には、基本的には年齢制限がなく、その世代毎に違う味わいがあるものだと思っています。

私も子どもの頃からつい最近まで、出版社の提示する対象年齢について気にしたことなとありませんでした。

しかし、子どもは発達の途上にいます。

本を子どもが自ら手に取るのではなく、大人から手渡す場合には、対象年齢についてちょっと立ち止まって考えてから、勧めたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

パンやのくまさん


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フィービとセルビ・ウォージントン  作・絵

まさき  るりこ  訳

福音館書店

 

パン屋さんはお好きですか?

近頃は、都会でも田舎でもあちこちに個性的なパン屋さんがありますよね。そして、同じ種類のパンでもお店それぞれに特徴があり、食べ比べするのも楽しいものです。パン屋さんに行くのを楽しみにしているお子さんもいることでしょう。

この本は、子どもたちにお馴染みのテディベアが経営するパン屋さんのお話です。

 

ところで、この絵本のくまさん、構成が「絵本の文法」に忠実過ぎるために過重労働になってしまいました。

どういうことなのか、あまりネタバレをしない程度にちょっと見ていきましょう。

 

最初のページは、主人公のくまさんとくまさんのパン屋、配達用のワゴン車、そして色々なパンやお菓子の絵がアイコンのように文章中にちりばめられています。

主人公はこのパン屋さんで、こういうお店を持っていて、こんなパンやお菓子が売られているのだなと、これから始まる物語にわくわくしながら入っていけそうです。

 

そこから先は、くまさんの一日が始まります。

朝起きてから、夜寝るまでのくまさんの様子を追っていきますが、まあこのくまさんの働きっぷりったら!

パン作りから移動販売、店番、配達、売上の計算までマルチにこなし、一日中息つく隙もありません。

現実的には、役割分担するような仕事も、このくまさんひとりが担っているのですが、それには訳がありました。

 

この絵本では、パン屋さんの仕事の中で、小さな読者が知りたいであろう場面が選ばれ、描かれています。

その中で例えば移動販売、店番、配達という、1人で並行できないものは通常、別々の人が行うと思われます。

ところが、その辺りをリアルにしようと、その動作の主体者が、カメラがぱっと切り替わるように変わってしまうと、小さな読者は物語の筋を追いにくくなってしまいます。

最初に登場したくまさんが、時系列通りにひとつひとつの場面を渡り歩いていく方が、お話としてすっきりと分かりやすいのです。

くまさんの過重労働はこのような訳だったと推察されます。

 

ところがこのくまさんの働きっぷりは、思いがけず大人の読者にとっても楽しみを与えてくれます。

朝から晩まで息つく隙なく働き、疲れはてて眠り、また朝がやってくる…くまさんの働きに共感と清々しさを感じることで、子育て中の「24時間営業」感を笑いで癒してくれるのです。

夫も私もこの絵本を読むのが大好きでした。

そして、子どもたちが大きくなった今でも、この小さな絵本は本棚に並び、時々出番を待っています。

私をかたちづくるもの

 

最近聞いてとても驚いた話があります。

夫が勝手にテレビのチャンネルを変えて困る、私が観ているのに…というものです。付け加えますが、それに対して妻は「今、私が観てるのだけど」ということを夫に伝えたことが一度もないようなのです。

なんで言わないのー!と私には疑問しかないのですか、そういう家庭は少なくないようで、それも私にとっては驚きでした。

 

テレビを観ていることを夫に伝えずに「私が観ているって分かってるはずなのに、どうして勝手に変えるの!」と思っていることが私には理解できません。

夫は単純に、妻が観ていることに気付かないだけで、一言、「私が観ている」と言えば済む話のはずなのにとしか思えないのです。それをせずにイライラしている状況になぜ甘んじているのか不思議です。(仮に観ていると分かっていて勝手に変えているとしたら、それはさらに重大な問題を抱えていますね…)

 

言わなくても察するべき―そのような姿勢を子どもの頃から強要された果てがそのような態度になってしまったのかもしれません。

しかもそれが人生のある時点でリセットされることなく…

 

「アサーティブにね」

学生の頃、外国人の先生からことあるごとに、そのようなメッセージを受け取っていました。

「日本では自分がお茶を飲むとき、聞きもしないで先輩にも淹れるでしょう?だけど〇〇先生はそういうことはしない。私が飲みたいかどうか聞いて、要らないと言ったら自分の分だけ用意する。」例えばこのような話をして、言葉で伝えることの大切さや、いわゆる気働きを必要以上にやる必要はないということを教えてくれました。

 

それから、学生時代はクリスチャンではないのに、チャペルに足繁く通っていました。「チャペル」というあだ名がつくくらい…

そのおかげで、自分でそれと気付かないうちに、色々な人のお祈りの言葉、講話の中から、自己を相対化する視点を繰り返し学ばせてもらった気がします。

また、学問と同じくらいかそれ以上に熱心に活動したサークル活動でも、言葉を尽くし、とことん議論できる空気がありました。男性の先輩方は、「昭和のオヤジ」の残党のような人が多かったにも関わらず、ありがたい環境でした。

 

ところで、幼少期、私の両親は、特にアサーティブな態度を取る人たちではありませんでした。

ただ、私に対して親の権威を振りかざし、過剰な支配をする人たちでもなかったのです。

そのため、私は成長するにつれ、自分の考え方や態度を学び、それを身につける自由が与えられていたのだと気付きました。

 

子育てにおいては、自分の子どもの成長段階に合わせて、過去の自分の同時期をなぞって再体験しているような錯覚を覚えることがあります。

今の私のものの考え方や世の中に対する態度は、大部分、この学生時代に形づくられたのではないかと、子どものひとりが大学生になった今、そう気付いて驚いています。

 

今まで書いてきたことは、私に2つのことを示唆してくれています。

ひとつは、人は成長していく中で、親(養育者)の影響だけを強く受ける訳ではなく、自分で選び取りながらものの考え方や世の中に対する態度を身に付けていくことができるということ。

もうひとつは、親(養育者)の過剰な支配は、その学びを妨げうる可能性があるといこと。

 

子育てに悩み、これで良いのかとあれこれ考えあぐねるより、子ども自身の育つ力を信じ、心身共に健康に過ごせる環境を整えることだけを考えればいいと思えば、少しは肩の力が抜けるでしょうか。

案外、その「心身共に健康に過ごせる環境を整える」ということを難しく感じる世の中ですが…

とりあえずは、最低限の衣食住に絵本(芸術性)をプラスしていればなんとかなるかな…と、タフさに欠ける私はそう自分に言い聞かせています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ステイホームのスローガン

夫がユーチューブで熱心に観ているものがあります。ステイホームを訴える、有名な楽曲の替え歌です。特にお気に入りの曲は何度も聞いて、感傷に浸っています。

残念ながら、私は彼の気持ちに寄り添い、感動を分かち合うことができません。(曲と映像自体はクオリティが高いものが多く、純粋に楽しめますが。)

私にとっては、ステイホームがそれほど苦痛ではないからです。むしろ、積極的に外へ出よ!というプレッシャーを感じなくて済むので、大変気が楽です。

 

緊急事態宣言が出され、不要不急の外出の自粛が求められてほっとしている人々が、皆が思っているより大勢いると思います。

彼らは今だけは「外に出よ!」「社交的になれ!」と強要されることなく、心穏やかに日々過ごしていることでしょう。(中にはせっかく飲み会の類いがなくなったのに、オンライン飲み会が増えて、逆に逃げられない!というような悲鳴も聞こえてきますが…)

 

しかし、人と会うことによって元気をもらえるタイプの人、集団での関わりの中でより良く育つ子どもたちにとっては、長引く「軟禁」は、非常にストレスフルなものだと思います。

そこで声高に「ステイホーム頑張ろう!」と叫ぶ必要があるのかもしれませんが、もともと籠ることが好きな人間にとっては、頑張ることでもなんでもなく、それを冷ややかな目で眺めてしまっています。そしてこう思うのです。

「そんなに感傷的に気持ちを押し付けないで。何でも自分と同じように感じたり、出来たりすると思ってほしくない。」

 

今までは自分の方が至らないのだと肩身の狭い思いをしていた。しかし、自分たちの側の人間にとって快適な状況になった途端に、自分たちに過剰な要求をしていた人たちにとっての「普通」と自分たちの「普通」が重なっていなかったことを知る。そしてこの肩身の狭さは、それによって起きていた摩擦に過ぎなかったということに気付く。

往々にして、自分たちの方が少数派だったから、相手の方が声が大きかっただけ。

このようなことが起きているのではないかと思います。

 

相手との立場の違いを知り、それを尊重する。

ひとり心静かに過ごすことができる一方で、それぞれの立場により、明暗がくっきりと分かれてしまっている悲しい現実も見えるようになってしまいました。

さらにそのような状況の中、さらに傷口に塩を塗るように、見当違いの攻撃を繰り返している人々も出てきました。

ステイホームをしていても、内省的な時間を過ごす物理的、精神的余裕がないなんて…

先ほど書いた「相手との立場の違いを知り、それを尊重する」という、シンプルで大切なことはどのようにすれば実現できるのだろうかと思います。

 

子どもたちは大人の態度を空気のように吸って育っています。「教えた」ことはちっとも身に付かないのに、私のものの考え方、世の中に対する態度は、声に出して伝えてもいないのに、いつの間にかそっくりそのまま子ども自身のものになっていることに気付き、ぞっとすることがあります。

「相手との立場の違いを知り、それを尊重する」

ステイホームで親の言動が子どもたちの目に触れる機会が多い今こそ、大人としてのあり方が問われているような気がします。

 

 

 

 

はじまりの日

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『はじまりの日』

ボブ・ディラン  作、ポール・ロジャース  絵、アーサー・ビナード  訳

岩崎書店

 

今日は5月のはじまりの日ですね。

大好きな一冊をご紹介します。

これは、ノーベル賞を受賞したミュージシャン、ボブ・ディランの名曲『Forever Young』の歌詞を絵本にしたものです。

彼の息子が生まれた時に、その息子のことを思いながら作られた曲だそうです。

確かに、その歌詞は子育てにおいて重要な視点に満ちた内容です。息子に対する深い愛情を感じさせます。

そして、何よりそれは親から子どもへ何かしてあげるという感じではなく、子ども自身に、それどころか大人たちにとっても、自分が生きていく上で大切な姿勢を示してくれている点が見事です。

我が家ではこの絵本の内容の能動的な部分(例えば、「約束を守って嘘を嫌う」というような、自分自身が心掛けられること)を生活信条として大切にしたいと思いながら、子どもたちと楽しんでいます。

 

とりわけ私が素敵だと思ったのは、扉に描かれている絵です。

男が「DIG YOURSELF」と書かれたボードを持っている絵ですが、その訳として「ひとりをたのしめ」と書かれているのです。

DIG YOURSELF---「自分自身を探究せよ」というような意味合いだと思うのですが、それを「ひとりをたのしめ」と訳した訳者の言葉選びのセンスに感嘆しました。

 

平時には表に現れなかった人々の心の闇があらわになるのを、今、私たちは眺めているのではないでしょうか。それは人の心のほんの一部にしか過ぎないはずですが、明らかに利己的で暴力的な心が容赦なく他者を攻撃しているのを目にすることが、今までに比べて多くなりました。

そのような心を持つ時、人は、果たして自分自身の姿を外側から冷静に見つめることができるでしょうか。自分の心の奥深くに近付き、それを眺めてその本当の望みを知ることができるでしょうか。

それができていないために、本来の自分の気持ちとはかけ離れたところで見当違いの攻撃を繰り返している。私にはそのように思えてなりません。

そんな時こそ、きちんとひとりにならなければと思います。

 

ひとりの時間の豊かさや、内省のひとときが人間にとってどれほど大切で喜びに満ちたものであるかを知らないのはもったいないと思います。

「ひとりをたのしめ」DIG YOURSELFをそのように訳した訳者がこの一言に込めたメッセージを、私はこのように解釈しました。

 

ところで、この絵本の絵は、アメリカの音楽史に精通した画家の手によるものです。

巻末に「この本の絵について」と題して、各場面の絵についての解説が載せてあります。

随所に遊び心溢れる仕掛けがあり、そちらも楽しめます。

 

それから、もうひとつ大切なこと、この本の文章は、そのまま「Forever Young」の曲に乗せて歌うことができるのですよ!

読みかたりに持って行くことも多い絵本ですが、いつかギターを弾きながら歌える人を一緒に連れていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

『たのしいぎろん』(3)

議論の話、思いの外長くなりつつあります。

(1)では議論ができない人がいるという話を、(2)ではその特徴を整理してみました。

今回は、それをさらに詳しく分析して、議論ができる人になるためにはどうすれば良いかを考えてみたいと思います。

 

ここからは話が少し推測の域になります。

 

議論ができない人は、日頃から自分の思っていることや考えていることを相手に上手く伝えられないのではないでしょうか。

それどころか、その中には日常の些末なことでさえ、相手に伝えること自体をやらない人がいるのではないかと思ってしまいます。

察してほしい、だけど気付かない相手に苛立ちを覚えたり、逆に頼まれもしないのに先回りしてやってあげたり…

そのようなコミュニケーションが当たり前の状態だと、自分の考えや意見を言えと言われた時、上手く言葉にできないかもしれません。

 

それから、自分より立場が上とされる人のいうことに従うのが当然、という意識が身に染み付いている場合も、議論はできないでしょう。

このような場合、物事を論理的に考える習慣を身に付けるのは難しいことです。「上に従うのが当然」という姿勢が出来上がっている状態では、不平不満を抱くことはあっても、それがなぜおかしいと感じるのか、ということまでは考えられなくなっていると思われます。

つまり、仮にある物事に対して反対の意見を持っていたとしても、感情的な価値基準でしか判断していないのです。ですから、それに対しての論理的な説明ができず、感情的・感覚的なことを示すことしかできないのです。

その人自身の気が強かったり、立場が強かったりする場合は、怒りの感情を示し、相手を威圧する。一方、弱気になっていたり、立場も弱いと判断したりした場合は、諦めて沈黙する。

 

議論ができない人の議論ができない訳は、このように一朝一夕に作られたものではなさそうです。長い間の習慣がそうさせているのですから、こちらがいくら頑張っても簡単に話が通じるわけがないのです。

 

それでは、先ほど挙げた習慣を変えれば議論ができる人になれそうです。

逆の習慣を書いてみましょう。

 

・日常的に、自分の考えや意見を表明する。思っていることや感じていることを伝えるところから始める。

要するに、こちらが言わなくても相手は分かるだろうなどというやり方に頼らない。(しばしば言わなくても分かるだろうがエスカレートして、こちらが言わなくても相手は察するべきだ!になりがちではないかと思います…)

 

・まずは家庭という小さな社会の中で、誰でも自分の考えや意見を感情的にならずに伝えられるようにする。

さらに、人間社会にある上下関係を意識する。できる範囲でそれが本当に必要かどうかを考える。例えば「子どもは親の言うことに従うべき」という価値観は本当に正しいのか、などということを考えてみる。

 

議論ができない人が、自分が議論ができないことに対して困り感を抱くシチュエーションは滅多になさそうです。自分から変えたい!と思わない限り、変わるのは無理でしょう。

なので、ここは子どもたちに期待しましょう。

議論はより良い解決法を見出だすための建設的な行為です。議論ができなければ、世の中がより良い方向に向かうことも難しくなります。

先に挙げた2つの習慣が、ぜひ子どもたちに伝わっていくように意識して生活していけたらと思います。