絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

私をかたちづくるもの

 

最近聞いてとても驚いた話があります。

夫が勝手にテレビのチャンネルを変えて困る、私が観ているのに…というものです。付け加えますが、それに対して妻は「今、私が観てるのだけど」ということを夫に伝えたことが一度もないようなのです。

なんで言わないのー!と私には疑問しかないのですか、そういう家庭は少なくないようで、それも私にとっては驚きでした。

 

テレビを観ていることを夫に伝えずに「私が観ているって分かってるはずなのに、どうして勝手に変えるの!」と思っていることが私には理解できません。

夫は単純に、妻が観ていることに気付かないだけで、一言、「私が観ている」と言えば済む話のはずなのにとしか思えないのです。それをせずにイライラしている状況になぜ甘んじているのか不思議です。(仮に観ていると分かっていて勝手に変えているとしたら、それはさらに重大な問題を抱えていますね…)

 

言わなくても察するべき―そのような姿勢を子どもの頃から強要された果てがそのような態度になってしまったのかもしれません。

しかもそれが人生のある時点でリセットされることなく…

 

「アサーティブにね」

学生の頃、外国人の先生からことあるごとに、そのようなメッセージを受け取っていました。

「日本では自分がお茶を飲むとき、聞きもしないで先輩にも淹れるでしょう?だけど〇〇先生はそういうことはしない。私が飲みたいかどうか聞いて、要らないと言ったら自分の分だけ用意する。」例えばこのような話をして、言葉で伝えることの大切さや、いわゆる気働きを必要以上にやる必要はないということを教えてくれました。

 

それから、学生時代はクリスチャンではないのに、チャペルに足繁く通っていました。「チャペル」というあだ名がつくくらい…

そのおかげで、自分でそれと気付かないうちに、色々な人のお祈りの言葉、講話の中から、自己を相対化する視点を繰り返し学ばせてもらった気がします。

また、学問と同じくらいかそれ以上に熱心に活動したサークル活動でも、言葉を尽くし、とことん議論できる空気がありました。男性の先輩方は、「昭和のオヤジ」の残党のような人が多かったにも関わらず、ありがたい環境でした。

 

ところで、幼少期、私の両親は、特にアサーティブな態度を取る人たちではありませんでした。

ただ、私に対して親の権威を振りかざし、過剰な支配をする人たちでもなかったのです。

そのため、私は成長するにつれ、自分の考え方や態度を学び、それを身につける自由が与えられていたのだと気付きました。

 

子育てにおいては、自分の子どもの成長段階に合わせて、過去の自分の同時期をなぞって再体験しているような錯覚を覚えることがあります。

今の私のものの考え方や世の中に対する態度は、大部分、この学生時代に形づくられたのではないかと、子どものひとりが大学生になった今、そう気付いて驚いています。

 

今まで書いてきたことは、私に2つのことを示唆してくれています。

ひとつは、人は成長していく中で、親(養育者)の影響だけを強く受ける訳ではなく、自分で選び取りながらものの考え方や世の中に対する態度を身に付けていくことができるということ。

もうひとつは、親(養育者)の過剰な支配は、その学びを妨げうる可能性があるといこと。

 

子育てに悩み、これで良いのかとあれこれ考えあぐねるより、子ども自身の育つ力を信じ、心身共に健康に過ごせる環境を整えることだけを考えればいいと思えば、少しは肩の力が抜けるでしょうか。

案外、その「心身共に健康に過ごせる環境を整える」ということを難しく感じる世の中ですが…

とりあえずは、最低限の衣食住に絵本(芸術性)をプラスしていればなんとかなるかな…と、タフさに欠ける私はそう自分に言い聞かせています。