モラーリッシェ・ファンタジー
「モラーリッシェ・ファンタジー」という言葉があります。
日本語に訳すと「道徳的想像力」。
私のイチオシの作家、M・エンデはこのモラーリッシェ・ファンタジーについていくつか言及しています。
エンデの解釈に従い定義するなら「直感に根差して、ある状況に直面した瞬間、その度ごとの道徳的判断を下すこと」となります。
ルールやマナーは何のためにあるのでしょうか。
ざっくり言うと、集団の秩序を保つため、その集団の構成員が互いにできるだけ快適に過ごせるようにするためでしょうか。
しかし、ルールというのは万能ではなく、マナーも時と場合によって真逆の印象を与えることがあります。
本来、いずれもその都度ごとに判断しなければならないものなのです。
しかし、現実はどうでしょうか。
ルールやマナーを絶対視し、いついかなる時でも守らねばならない、そう考えている人が大勢いるのではないでしょうか。
特に今の日本社会ではその傾向が強過ぎるような気がしてなりません。
「今の」日本社会?
昔はどうだったのでしょう。
ちょっと有名な歌舞伎『勧進帳』を思い出してみてください。
あのお話は関所で怪しまれ、捕えられそうになった義経を臣下である弁慶がその場を乗り切るために、暴行を加えるというものです。
それを見た関所の役人も心を打たれ、関所を通すというものですが…
すごいルール違反、マナー違反ですね(笑)
「指名手配人」の通行を許可する、臣下が主君を殴打する(現代の尺度で言えば誰が誰を殴っても犯罪ですが…)、しかしそれを見た人々の反応は…?
「なんという非常識!」「けしからん!」「世の中を乱す危険な行為!」そんな感じですか?
そうではなく、冨樫左衛門(義経を捕えるよう命じられていた関所の役人)のように、弁慶の咄嗟の機転と判断力、そこから導き出された命懸けの言動に感服し、感動を覚えているのではないでしょうか。
そして、それはどうしてでしょうか。
それは義経が悪事を犯した「犯罪者」ではなく、その時の為政者が疎ましく思っている存在だったからだからではないでしょうか。
いわば、その時の状況によって価値観の変化するもの、「義経=指名手配人」という図式はかなり相対的なものであり、その時の政権の「ルール」に過ぎません。
それで、後の世の「判官贔屓(ほうがんびいき)」が人々の多数派を占める時代には、これは「重大なルール違反」ではなく「人情味溢れるヒーロー救出劇」となる訳です。
既に当時の為政者も政権も遥か昔のことに過ぎませんからね。誰にも咎められない。
つまり、あの時、主君を打ち据えるという暴挙を咄嗟に選択した弁慶は、正しくモラーリッシェ・ファンタジーを機能させたと言えるのです。(超解釈!ですが、私はそう思っています。)
しかし、勧進帳に限らず、他にも文楽の題材等でもこのような一見、ルールやマナーを逸脱したように見えて、周りの人が皆ハッピーになっているという作品はいくらか見られるのですよ。
そう考えると、昔の日本人は、モラーリッシェ・ファンタジーの精神を身に付けていたと思えてなりません。
今の世の中にも色々なルールやマナーがあります。
果たしてそれらは何百年後にも通用するものでしょうか。
硬直化したルールに漫然と従っているだけだったり、もっともらしい理由を付けたマナーが実は恣意的なものであったりということはないでしょうか。
ルールもマナーも最初に書いたように、本来は集団の秩序を保ち、その構成員が互いにできるだけ快適に過ごすためのもの。
誰かが窮屈な思いをしたり、不快な気分を味わったりしていたとしたら、それはその都度考えなければなりません。
モラーリッシェ・ファンタジー…道徳的想像力、常に働かせていますか?