ゲームの世界(2)
前回は、子どもたちはなぜゲームをするのか、大人たちはなぜ子どもたちに長時間ゲームをさせたくないのかということについて書きました。
そして、最後に、ゲームを必要とする子どもたちがいるのではないかというところまでお話ししました。今回はその続きです。
ゲームを必要とする子どもたちと一口に言っても、それも実は色々な側面があると思っています。
①何らかの理由で、リアルでの人との交流が減っていて、オンラインゲームを通して人とコミュニケーションを取る必要等がある場合。
②プロゲーマーを目指すなど、ゲームをし続ける必然性に駆られている場合。
③意識しているかしていないかに関わらず、ゲームの世界に何らかの癒しや導きを求めている場合。
他にもあるかもしれませんが、ここで話題にしたいのは、③の場合のことです。
最近人気のあるビデオゲームのジャンルとして、自分自身がゲームの登場人物となり、その中に住まうというものがあります。
そこには理不尽な態度を取る人はいません。指示通りに動けばそれだけの見返りがあります。仮に「理不尽な」扱いを受けるシーンがあったとしても、それはそのゲームでの想定内の出来事です。
現実の世界で、ハラスメントに晒されている子どもは、この優しいゲームの世界にやって来て、思い通りにいかない現実世界へと戻っていく力を蓄えているようです。
これは一例ですが、他にもゲームの世界に何らかの強烈な目的を持って飛び込んでいくケースというのは、案外多いのではないでしょうか。
先日、ファンタジーについての記事を書きましたが、ファンタジーを中心とした物語と一部のビデオゲームとの間には、何か密接なつながりがあるのではないかと思いました。
ロールプレイングタイプのビデオゲームは、まるで、物語の世界へ踏み込んでいく道筋が、よりリアルに手っ取り早く見つけられる便利な道具のようだと気付いたのです。
一部のファンを除き、児童文学というジャンルの本があまり読まれなくなっています。小学校の図書館で新刊として続々入ってくるのは、何というか…「ライトサイエンス」とでも名付けられるような、自然科学や社会科学を、軽い読み物に仕上げたような本が中心です。
子どもという存在の普遍性を考えると、絵本と同じように、児童文学も同じように子どもに必要とされ続けるはずであるのに、あまり読まれなくなってきている原因のひとつに、ロールプレイング型ビデオゲームの充実というものが関係しているのかもしれません。
とはいえ、私はそのような現状を嘆いているわけではありません。ただ、ゲームのそのような側面に気付いたということをお知らせしたかっただけです。
私は、本を読んでその世界へ入っていくことと、ゲームを通じてその世界へ入っていくこととの間に優劣はないと思っています。
洗濯をするのに、手洗いの良さと、全自動洗濯機を使うことのメリットがそれぞれあるのと同じように、単なる手段の違いで、その時々で使い分けたらよいものではないかと思うのです。
ゲームの楽しさしか知らない子たちに、本の楽しさも伝わるといいなと思います。
そして、どちらも視力の低下や運動不足に気をつけつつ楽しみたいものですね。