絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

『たのしいぎろん』(1)

「議論」と聞いて、どんなイメージが湧くでしょうか。なぜわざわざそのような変な質問をするのかというと、この言葉の定義は、案外、人によって大きく違うのではないかと、最近考えているからです。

 

「異なる意見が存在した時、それらを様々な立場から論じて、より良い解決法を見いだすこと」私の考える議論の定義はだいたいこのような感じです。明るく建設的なプラスのイメージです。

ところがどうもそうではない人たちがいるらしい、ということを昔から薄々気付いてはいましたが、最近、特にそれを意識するようなことが多く起こっています。

 

皆さんも「議論の勝ち負け」という表現を耳にしたことがあるのではないでしょうか。

私にとっての議論の定義は、先ほど書いた通りですので、非常に違和感を感じる表現です。そもそも勝負の概念を持ち込まれても…と、困惑しかありません。

しかし、そのようなことばが生まれるくらい、議論というものを誤解している人が一定数いるということです。

 

議論を何か勝負事のように考えている人々が、議論を必要とする場面に出くわした時、その態度は大きく二つに分けられます。

ひとつは、相手を言い負かそうと語気を荒げ、怒りの感情を顕わにし、自分の方が「強い」立場にいると誇示する態度です。

もうひとつは、自分がその議論において「勝てる」見込みがないと思い込み、一切の意見を言わず、沈黙するという態度です。仮に意見を言うように促されると、「揉めたくないから…」というようなことだけを呟くのです。

対立した意見がある時に、そうやって議論を「放棄」されたことが何度かあります。話し合いの場の中に、上記のような二つの異なる態度同士の人たちが混じっていて、さらにまともに議論ができる人が少数派だと、たいていは声が大きく、威圧的な人の意見になってしまいます。

なぜかというと、威圧的な少数派が、沈黙の多数派を自分の側に取り込むからです。沈黙が自分への同意と見なされるのです。

まるでいじめの構造と全く同じではありませんか。

 

子どもの手本となるべき大人たちがこの有り様では文字通り話になりません。こちらが言葉を尽くし、あらゆる方向から相手方の主張に対して疑問をぶつけ、説明を求めても、同じ主張を高圧的に繰り返し、話が進展しません。

嫌気がピークに達して打ち切りたくなるか、むなしく終了時刻を迎えるかのどちらかで話し合いは終了です。

 

どうしてこのようなことが起こるのか、少し考えてみたくなりました。

ということで、この話は次回へ続きます。