絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

理解できなかった話



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娘としゃべっている時にふと、子どもの頃に見たドラマを思い出しました。

当時の私と同じ、食べ物の好き嫌いの激しい女の子のエピソード。女の子はある時、戦時中のお話を聞き、当時は十分な食料がなかったことを知ります。

女の子は、「昔は食べたくても食べるものがなかった。今、食べるものが十分にある時代にいる私は、何でも食べなきゃ」と思い、好き嫌いを克服するのです。

 

私の頭の中は疑問符でいっぱいでした。

その女の子の思考回路が全く理解できず、このエピソードはずっと心に引っ掛かっていました。

しかし、同様のパターンはこのドラマだけでなくあちこちで見られ、今年、アニバーサリーを迎えるあの国民的アニメーションでも、同様のパターンの話を見たことがあります。

 

その疑問を娘にぶつけてみました。

子どもの頃の私の抱いた疑問は、どうして、「食べるものがなかった人たちがいたから、私も同じように、無駄に多くを食べるわけにはいかない」ではなく、その人たちのことを思いながら自分だけ存分に食べるの?ということだったのですが、その私の考えを聞く前の娘の意見は、私の想像を超えていました。

「昔、食べるものがなかったからといって、今、色々な食べ物があるのに、その当時の価値観を持ち出して、苦手なものを残さず食べろ!というのは乱暴だろう」…娘の発想は、私の予測を超えたたくましさでした…

 

そもそも、好き嫌いというのは感覚の問題です。

身体が拒絶反応を起こしているものを無理矢理に取り込ませようとする愚かさ。人間はひとりひとり違うという発想がなかった時代の、自分は平気だから、この子も平気なはずだ、食べられないのは気のせい、という感じなのでしょうね。

あと、野菜嫌いな子が、自分で育てた野菜は食べられた!それは、作り手の気持ちが分かったからに違いない!とか…

単に、無農薬で育てられ、独特の苦味や、シュウ酸の値が低い作物がたまたま出来たから食べられただけじゃないのとしか思わないのですが…今までその子が食べたことのあった同じ種類の野菜は、たまたま「おいしくない」ハズレのものばかりだっただけだろう、と私は思うのですが。

つまり、このエピソードも感覚の違いが理解できない人間の発想ですね。

好き嫌い克服物語にはそのような与える側に都合の良いエセ感動物語が含まれていて、気持ち悪さが拭えません。

 

ところで、話を戻して、私は今でも、「〇〇できなかった人がいたのだから、恵まれている私はしっかりと〇〇を享受しなきゃ」という論理が手放しで称賛される空気が理解できません。

大人になるにつれ、一定程度は理解できる部分も出てはきたのですが、やはり好き嫌い克服話に絡めるのには嫌悪感を感じます。

もう少し分析してみると、その他者と自己との間に、自分と同じように喜怒哀楽を持つ「私と同じ」存在としての人間を感じることがないからそういうことが言えるのかなということを考えたり、一方で、「みんな同じ」と思っている人ほど、他者の痛みを感じないというのはどういうことだろうと思ったり…

しかし、そのような発想ができることこそが、たくましく生き抜いて行くための知恵だろうと理解したり、いや、多くの人が感じない罪悪感を抱えつつ、それによって産み出された価値を社会に還元していく生き方(こういう生き方をした人の代表として、私は加古里子さんを思い浮かべます。)の方がいいじゃないかと感じたり…

 

いつか誰かこのドラマの女の子の論理に共感できる人と語り合ってみたいな…と思います。