絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

昔話を語る


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かつて、子どもたちは、絵本を読む代わりに、たくさんのおはなしを聞いて育ちました。世界中の子どもたちが、自分の家族やコミュニティの中で年長者が語るおはなしに耳を傾けたのです。

それらのいくつかは「昔話」として私たちに残されています。

長い年月を経て生き残ってきた昔話は、物語の構造の面においても、テーマの面においても優れています。そのため、聞いて面白く、何か心の奥深くに残り、人生の折々に無意識に呼び覚まされる力となります。

しかし、その昔話を語ることができる大人は、今ではどのくらいいるでしょうか。

 

現代ではたくさんの絵本が出版され、私たちはそれを子どもたちに読んであげることができるようになりました。そして、優れた昔話絵本も数多く出版されています。

絵本があるからこそ、昔話を語ることのできる大人が身近にいなくても、子どもたちは昔話をいくつも知っています。

つまり、絵本がなければ、多くの子どもたちは、「三びきのやぎのがらがらどん」も、「かにむかし」も、「おだんごぱん」も、その他数多くの昔話も、知らずに終わったのではないかということです。

『昔話絵本を考える』(新装版)松岡享子・著、日本エディタースクール出版部p.118  より引用

まさにその通りではないでしょうか。

(昔はアニメーションで昔話をやってくれる人気番組があり、私と同世代の日本育ちの人は、それで日本の昔話を数多く知ることになったという事情がありそうですが…)

 

ところが、いくつかの昔話絵本を読んでいると、昔話を絵本にすることの矛盾点に気づきます。

例えば、ロシアの昔話の『てぶくろ』、日本のものでは『頭が池』、『あたまの柿の木』の類のものなど。これらをまず写実的に表現することは不可能です。(これらのいずれも、自然に物語に入っていくことができるような絶妙な絵で描かれた絵本が出版されていて、画家の技量に驚嘆しますが。)

そのような明らかな矛盾点に限らず、昔話を絵で表現することは非常に難しいことです。

なぜなら、昔話は「耳で聞く」ためのお話であり、絵と文章の両方を「目で見る」あるいは、「目で見て、同時に耳で聞く」絵本との表現に相容れない部分が多分にあるのです。

 

先に挙げた『昔話絵本を考える』の中では、グリムの昔話である『七羽のからす』を題材に、その辺りのことを詳しく論じられていました。

非常に納得のいく論説でありましたので、私は子どもたちに『七羽のからす』を語ってみたくなりました。

すばなしとして展開する自信も時間もなかったため、質の高いテキストを読み語ろうと思ったところ、ちょうど我が家にも野村泫氏・佐々梨代子氏による訳文が付けられた絵本(『メルヘンビルダー』ハンス・フィッシャー  絵、こぐま社)があったため、小学4年生の朝の読みかたりに持って行きました。

子どもたちは椅子に座り、めいめい好きなように聞いてくれていましたが、ちょうど七人の少年がからすに姿を変えて飛び去っていく場面で、視線を自分の頭上の少し前方にやった女の子が目に入りました。

それを見た時に、この昔話を絵本ではなく「語り」のみでやって良かったと思いました。

その後も子どもたちは、女の子が自分の小指を切り落として鍵にするシーンなどで少しどよめきながら、最後までそれぞれの映像を頭の中に描きながら聞いてくれていたようです。

 

私も時々、すばなしを聞く機会がありますが、大人であっても、絵本を読んでもらったり、自分で本を読んだりするのとでは違う魅力を感じます。

語り慣れていて流暢に話される方のすばなしももちろん良いのですが、時々引っ掛かりながらなんとか最後まで語り終える方のすばなしも味わい深く、心に残るものです。

おはなしを語ることには何か不思議な力がありそうです。

 

昔話について学べば学ぶほど、昔話の重要性だけでなく、子どもたちに「語って聞かせる」ことの大切さにも気づかされます。

ちょびっとクラブは、絵本のサークルですが、いつかおはなしの語り手としても゛活躍゛できたらいいなと思います。