絵本といっしょに ~ちょびっとクラブ~

絵本をこよなく愛するメンバーによる、良質な絵本を楽しむクラブです。メンバーのひとり、Kの日々思うこと。

モラーリッシェ・ファンタジー

「モラーリッシェ・ファンタジー」という言葉があります。

日本語に訳すと「道徳的想像力」。

 

私のイチオシの作家、M・エンデはこのモラーリッシェ・ファンタジーについていくつか言及しています。

エンデの解釈に従い定義するなら「直感に根差して、ある状況に直面した瞬間、その度ごとの道徳的判断を下すこと」となります。

 

ルールやマナーは何のためにあるのでしょうか。

ざっくり言うと、集団の秩序を保つため、その集団の構成員が互いにできるだけ快適に過ごせるようにするためでしょうか。

 

しかし、ルールというのは万能ではなく、マナーも時と場合によって真逆の印象を与えることがあります。

本来、いずれもその都度ごとに判断しなければならないものなのです。

 

しかし、現実はどうでしょうか。

ルールやマナーを絶対視し、いついかなる時でも守らねばならない、そう考えている人が大勢いるのではないでしょうか。

特に今の日本社会ではその傾向が強過ぎるような気がしてなりません。

 

「今の」日本社会?

昔はどうだったのでしょう。

ちょっと有名な歌舞伎『勧進帳』を思い出してみてください。

あのお話は関所で怪しまれ、捕えられそうになった義経を臣下である弁慶がその場を乗り切るために、暴行を加えるというものです。

それを見た関所の役人も心を打たれ、関所を通すというものですが…

すごいルール違反、マナー違反ですね(笑)

「指名手配人」の通行を許可する、臣下が主君を殴打する(現代の尺度で言えば誰が誰を殴っても犯罪ですが…)、しかしそれを見た人々の反応は…?

「なんという非常識!」「けしからん!」「世の中を乱す危険な行為!」そんな感じですか?

そうではなく、冨樫左衛門(義経を捕えるよう命じられていた関所の役人)のように、弁慶の咄嗟の機転と判断力、そこから導き出された命懸けの言動に感服し、感動を覚えているのではないでしょうか。

そして、それはどうしてでしょうか。

 

それは義経が悪事を犯した「犯罪者」ではなく、その時の為政者が疎ましく思っている存在だったからだからではないでしょうか。

いわば、その時の状況によって価値観の変化するもの、「義経=指名手配人」という図式はかなり相対的なものであり、その時の政権の「ルール」に過ぎません。

それで、後の世の「判官贔屓(ほうがんびいき)」が人々の多数派を占める時代には、これは「重大なルール違反」ではなく「人情味溢れるヒーロー救出劇」となる訳です。

既に当時の為政者も政権も遥か昔のことに過ぎませんからね。誰にも咎められない。

 

つまり、あの時、主君を打ち据えるという暴挙を咄嗟に選択した弁慶は、正しくモラーリッシェ・ファンタジーを機能させたと言えるのです。(超解釈!ですが、私はそう思っています。)

しかし、勧進帳に限らず、他にも文楽の題材等でもこのような一見、ルールやマナーを逸脱したように見えて、周りの人が皆ハッピーになっているという作品はいくらか見られるのですよ。

そう考えると、昔の日本人は、モラーリッシェ・ファンタジーの精神を身に付けていたと思えてなりません。

 

今の世の中にも色々なルールやマナーがあります。

果たしてそれらは何百年後にも通用するものでしょうか。

硬直化したルールに漫然と従っているだけだったり、もっともらしい理由を付けたマナーが実は恣意的なものであったりということはないでしょうか。

 

ルールもマナーも最初に書いたように、本来は集団の秩序を保ち、その構成員が互いにできるだけ快適に過ごすためのもの。

誰かが窮屈な思いをしたり、不快な気分を味わったりしていたとしたら、それはその都度考えなければなりません。

 

モラーリッシェ・ファンタジー…道徳的想像力、常に働かせていますか?

 

 

 

春、再び…



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新学期です。

久しぶりにブログを書いてみようかと思いました。

そして、驚きました。

前回の更新からちょうど1年ほども経過している上、当時と状況がほとんど変わらないことに。

(※さらに驚いたことに、この文章を書き始めてから、一月ほど経過しています。筆の遅さに我ながら呆れます…)

 

ちょびっとクラブのサロンはあれからもずっと休止しています。

その間に子どもたちは就園・就学・進級と、成長していき、スタッフの生活の状況も少しずつ変化しています。

確実に時は流れているのです。

 

子どもたちの置かれている状況はどうでしょうか。

学校ではマスク着用が当たり前、行事は大幅カット、中には給食を完全に無言で短時間で済ますよう指導されたり、休み時間の過ごし方まで細かく制限されたりしている所もあるようです。

そして、手荒いや消毒を過剰なほどやる習慣がついている子、いつでもどこでもマスクが手放せない子が増えているのを感じます。

園でも似たような状況があるでしょう。

 

子どもの健やかな育ちを考えると、これ以上この状況が続くことへの強い危機感があります。

どうか、子どもがいる家庭では、今まで以上にプライベートでは子どもたちがのびのびと過ごせるよう工夫して生活してほしいと、願って止みません。

 

折しもゴールデンウイークに突入しました。子どもたちにとって、楽しい休日になりますように!

 

 

 

「新しいサロン方式」




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4月になりました。

ちょびっとクラブサロンは、昨年の3月に活動休止して以来、まだ再開の目処が立っておりません。

 

あの頃、多くの未就園児向けサロンやサークルが休会を余儀なくされていたと思います。

その後、学校の再開と同時に、少しずつ開催されるところが出始め、今ではレギュラー開催に戻っているところも多いと思います。

 

ところが、子育てフリーペーパー等で写真を見かけるサークルやサロンは今までと何か違う。

それは、大人が皆マスクをしているということです。

あるいは、写真には表れていませんが、消毒液の設置等もデフォルトになっているのかもしれませんし、皆でお弁当を囲むのもやっていないかもしれません。

 

このような「新しいサロン方式」で、ちょびっとクラブを再開しても良いのか…私は二の足を踏んでしまいます。

 

その理由はいくつかあります。

まずは、「マスクの着用」「消毒液を使用してのこまめな消毒」「フィジカルディスタンス」「黙食」などの、今現在推奨されている方式が、本来の幼児の生活に馴染まないことです。

幼児期というのは、もともと上記の事柄とは真逆の世界です。

例えば保育所などのように、否応なしに多くの子どもたちの生活の場を提供しなければならないところならいざ知らず、あくまでも生活のオマケとして選択するサロンでそのようなことをやってまで開催する意義が見えないのです。

 

それでもサロンやサークルを開催している所は、「未就園児と母親が家庭という密室に閉じ籠らざるを得ない状況を救い出す」という使命があるのかもしれません。

ですから皆さん、参加する時は大人はマスク着用で、手を消毒してくださいね、と、妥協できる部分は妥協して頑張って開いているのでしょう。

 

少しここでちょびっとクラブの目的を考えます。

ちょびっとクラブはそもそもあらゆる世代の方に向けて、絵本の魅力を発信するクラブです。

ところが、ちょびっとクラブのサロンに集う方々は、時間帯や内容の都合もあり、ほぼ未就園児とそのお母さんです。

ですので、他の育児サークルやサロンとの違いと言えば、「絵本を介した、絵本活動を中心に据えたものである」ということです。

 

つまり、ちょびっとクラブのサロンでは、読みかたりが活動の中心的位置にあります。

そして、その読みかたりですが、マスク着用でやるには色々と問題があります。

・声がくぐもり、クリアな発声にならない

・読み手の表情が見えない

箇条書きにするとたった2つかと感じられるかもしれませんが、この2つは極めて大きな問題点です。読みかたりにおいては致命的なことなのです。(これについてはもう少し詳しく別のところで述べた方が良いと思います。)

 

感染症対策ではさまざまな専門家により色々な意見があり、実はこれをやれば完璧、などというものはありません。

しかし、今現在暫定的に「マスクの着用」「消毒液の設置」「フィジカルディスタンス」「飲食を控える」等がスタンダードとされ、公の場ではそれらを遵守することが求められます。

そうすると、ちょびっとクラブでサロンを開く場合も、お部屋を貸していただく立場としてはそのような形式でやらざるを得ないでしょう。

果たしてそれは本当に子どもたちとそのお母さん方のためになるのか…

のびのびと動き回り、お弁当を囲んで楽しく語らうことができなければ、ほとんど意味がないのではないか…

 

今はサロンメンバーの方々へ毎月定期的に絵本の紹介をすることによって、なんとか細い活動の糸をつないでいこうと必死ですが…

再開までの道のりの遠さに、途方に暮れている今日このごろです。

 

 

 

絵本を読めない大人たち


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以前、ちょびっとクラブ参加者の方にお配りした通信で取り上げたテーマですが、今、また改めてこのことについて考えてみます。

 

出版物に占める絵本の人気の高さに比例して、様々な人が絵本を読み、その感想を目にする機会も多くなっています。

ロングセラー絵本ともなると、多くの人が感想を寄せています。そして、概ね高評価なのですが、中にはとても低い評価をしている人もいます。

そこで気になって、その感想をじっくりと読んでみます。

すると大体3つのパターンに分かれます。

ひとつは、対象年齢を全く無視しているものです。

例えば、赤ちゃんに4~5歳向けの絵本を読み聞かせ、「興味がなかった」と結論付けているようなケースです。

それから、ロングセラー絵本だけど、ウチの子は興味を示さなかった、というケースもあります。子どもの興味はそれぞれですし、読む時期によってもその時々に抱く感想が違うことはよくありますから、そのようなことはあるでしょう。

それら2つのパターンは置いておくとして、ここで話題にしたいのは、もうひとつのパターン、その絵本を読んだ大人が「絵本を読めていない」と言わざるを得ないようなものです。

 

それらにもいくつかパターンがあります。

・ファンタジーを読んでいると分かりつつ、現実的な視点を盛り込む。

・比喩表現を理解できない。

・文化的な背景を無視し、自分の所属する文化の基準でジャッジしている。

だいたいこんなところでしょうか。

 

一時期、昔話を現実的視点でジャッジして楽しむというような風潮がありました。

大人たちの間だけではなく、小学生向けの書籍でもそのようなものが流行しました。

比喩的表現によって形作られた物語である昔話をこのように読むと、たちまち突っ込みどころ満載のギャグのようになってしまい、文学的な深みはすっかり薄れてしまいます。

しかし、これは大人の読み方です。

昔話やファンタジーにとって、子どもは大人よりも優れた読者である場合が多いと私は思っています。

(そのことを具体的に紹介した記事はこちらです。↓)

chobittoclub.hatenablog.com

 

ところが大人になるにつれ私たちは子どものように読めなくなってしまうようです。

しかし、それをできるだけ遅らせたり、「読める」能力の一部を保ったままにしたりすることはできます。

その方法として考えられるうちのひとつは、とてもシンプルな方法です。

 

それは、子どものうちに、優れた絵本や昔話などにたっぷりと触れることです。

絵本が登場する以前は、世界中でさまざまな形で子どもたちへ昔話が語られていました。

残念ながら、現代社会ではそのような機会が極めて珍しくなってしまいましたが、その代わりに絵本という優れたツールが登場し、長い年月を経て発展してきました。

私たちは昔話を諳(そらん)じる代わりにそれらを使って子どもたちに物語を伝えることができます。

そして、その目的を達するために選ぶ絵本としては、長い間子どもたちに愛され読み継がれてきたロングセラー絵本、定番絵本をお薦めします。(これはなぜロングセラー絵本、定番絵本を選ぶと良いかという問題の答えにもなります。)

 

悲しいことに、冒頭に書いたように、単なる好みの問題を超えてそれらのロングセラー絵本の良さが全く分からない、つまり絵本を「読めない」大人というのは存在します。

私はそのことを大変もったいないことだと思っています。

なぜなら、「物語を読み取る」という行為は、人間の生き方そのものにつながるものだと考えるからです。(詳しい話はまた別の機会に…)

絵本を読めない大人が、評判の割にはこの絵本良くないな、と思って、子どもにそれ以上勧めないというのは、その分、子どもが「名作」に触れる機会が減ってしまうことになります。

 

まずはロングセラー絵本、定番絵本を勧めるのは、もちろんそれを多くの子どもたちが面白いと感じるからというのが一番の理由です。

しかし、以上のように、子どもたちに物語を読み取る力を育むための助けになってくれるからというのも理由のひとつです。

 

まあ、あれこれと理由を述べなくても、単純に、物語の持つ面白さというのが分からないのはつまらないだろうなと感じます。

名作絵本を「大人の感覚」でつまらないあるいは良くないとジャッジした人も、もう一度その名作絵本を手に取り、何度か繰り返し読んでみてくれないかな…と秘かに願っています。

 

 

 

 

読みかたりとポテサラ


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しばらく前に「ポテサラおじさん」というのが話題になりましたね。

自分が今まで関わったことがない事柄について、たいしたことではないと決めつけ、それをそのまま不躾に相手に伝えてしまう人というのがなぜかいます。(ところで、「ポテサラおじさん」については、高齢男性の孤独など、他の社会問題も含んでいそうですが、分かりやすいたとえとして使わせていただきました。)

例えば、保育士の仕事について、「子どもとただ遊んでいるだけの簡単な仕事」という人がいます。

ちょっと想像力を働かせたら、あんなに大変な仕事もそうそうないと分かりそうなものですが、今までの自分の人生において、全く交わることのない世界だった場合にそういった想像力が働かない人というのが一定数いるようです。

 

私は色々な所で読みかたり活動をしてきましたが、「読みかたりなんてヒマなおばさんたちがただ好きで絵本を読んでいるだけのラクなもの」という意味合いのことを言われたことがあります。読みかたり活動をしている私がその場にいることを知らずに発せられた意見でした。あまり本が好きそうではないやや年齢高めの中年男性によるものでした。

この方が読みかたり活動の奥深さや計り知れないほどの「教育効果」へ思いを馳せるのは難しかったのだと思います。おそらくそのような世界に今まで携わったことはないでしょうから。

 

ところが、私は読みかたりや読書活動、子どもへの教育に多大な関心があるはずの学校の先生、保育士、図書館担当の県や市の職員といった人々の中でも読みかたり活動に対してどの程度理解しているのかと考えた時、案外、軽視している人が多いのではないかと思えてなりません。

 

「ヒマなおばさんたちがただ好きで絵本を読んでいるだけのラクなもの」この視点はしかしある意味大切でもあります。

そのような「ユルさ」こそが、読みかたり活動の価値をむしろ高めるものとして機能している面もあります。

つまり、日常的で肩肘張らないものであるからこそ、子どもたちの生活の中に自然な形で関わることができるのです。そしてそれこそが計り知れない「効果」をもたらすのではないかと考えています。

 

ところが、その「ユルさ」の背景には、子どもの発達段階に対する知識と、絵本に対する洞察が必要です。発音、発声に対する最低限の技術、絵本を見やすいように支えられる程度の筋力もしくはそれに代わる工夫、そのようなものも必要になってきます。

しかも、読み手の感情もかなりの部分、聞き手に伝わってしまうものですから、それらを「楽しんで」やらなければなりません。

 

絵本や子どもに縁のない人がその様子を見て「絵本を読むなんて楽チンだな」と思う分にはまだ良いですし、ある意味「成功」なのですが、果たして先に挙げたような人々の目には、そのユルさの向こう側にあるものが映っているでしょうか。

最近はほとんど見かけなくなりましたが、ほんの数年前までは、小学校で読みかたりをしているすぐ傍でノートの丸付けをしたり、声が筒抜けの廊下で子どもを指導したりする先生が少なからずいました。

自分が授業をしている時に同じことをされたらどう思うか、ちょっと考えたら分かりそうなものですが。

私たちはこのような雰囲気を変えられるだけのものを持たねばなりません。

 

労働形態の変化により、乳幼児を育てながら働く母親が増え、親たちが幼稚園などで絵本の学習会を開くような機会は一世代前に比べると確実に減っているかと思います。

ですが、読みかたり活動に興味を持つ人は、幸いなことに年々増えてきている気がします。

その入口は、広く、低いものであってほしいと思います。

しかし、子どもと出会い、絵本と出会ううちにその深みへと進んでほしいと願っています。

そして、周りの先生や関係者の方々にもその魅力と必要性が伝わるような活動となり、子どもたちの健やかな育ちを応援できるようになってほしい。私もそのために努力していかねばと思っています。

 

 

子どもにメッセージを送る人へ

最近、子ども向けの媒体で、少し問題のある文章が発表されてしまい、あちこちから非難されるという事態が起こりました。

そのメディアは、すぐに、筆者からの真摯なお詫びのメッセージを掲載し、良い感じに収まったのですが、子どもに向けて何らかのメッセージを発信する場合は、大人に向けるよりも一層気をつける必要があります。

 

なぜなら、大抵の子どもにとって、大人の発言にはどこか絶対的なところがあり、ダイレクトに素直にメッセージを受け取ってしまうからです。

決して「この人も色々と大変なのね。まあ、私とは考え方が違うけど」などという捉え方はしません。たとえ違和感を感じたとしても、それをばっさりと切り捨てるようなことはできないのです。…仮にできたとしたら、その人はもう「大人」と言っても良いのかもしれません…

 

子どもへ向けて、何の配慮もないメッセージを投げかけて、その受け止め方を子ども任せにする大人は怠惰だと私は思います。

タチの悪いことに「子どもが様々なものに触れる機会を奪うな」などとうそぶいて、子どもへ手渡すには不適切なメッセージを含むものを子どもへそのまま渡すことに何のためらいもない大人もいます。

彼らは「様々なものに触れることによって、子どもがそこから自分で選別し、批判精神を身につける」と言います。

いったい、何歳位の子どもを想定してしゃべっているのでしょうか…

あなたは生まれた時からその冷静な批判精神というものを身に付けていましたかと聞きたくなります。

有名な話でこのようなたとえ話があります。

 

ある父親が、幼い息子を机の上に立たせて、その後ろに回ってこう言います。「さあ、目を閉じるんだ」。息子は目を閉じます。父親は「後ろへ倒れなさい。パパが受け止めてあげるから。」と声をかけます。

息子は倒れ落ち、したたかに背中を打ちます。「パパ!どうして僕を受け止めてくれなかったの!」父親は答えます。「この世では実の父親だって信じることができないと学ぶためだよ。」

 

 

私自身を振り返ると、小学生時代には「批判的な」子どもだったと思います。

しかしそれは、学校での学習内容に限られていたような気がします。

昔は、良く言えばおおらかだったのか、先生が明らかに間違った内容を教えることがありました。

私はすぐにそれに気付くのですが、同級生たちはあまり疑問に思わないのか、誰もそれを指摘する人はありませんでした。

私は何がどう違うのか、冷静に論理的に指摘する技量はまだ持ち合わせていませんでしたので、自分の思う通りに発表することによって、その間違いを指摘しようとしていました。

ところが、先生は最初から大きく勘違いをした状態で授業を展開しているため、私の解答は単なる間違いとしか見なされませんでした。その度に悔しい思いをしたものです。

 

以上は、学習内容についての子ども時代の私の「批判的な」態度です。

学習内容については、それまでの積み上げですから、ある程度自信があります。そのため、ここまで考えることができたのだと思います。

しかし、筋道立てて先生に反論・説明するまでには至っていないのです。そのためにはもう少し語彙力や論理的に話をする技術が足りませんでした。

 

客観性があり、自分の方が正しいと自信を持って言える物事に対してでさえ、子どもの力ではこの程度なのです。

ましてや、主観的に様々な見解があるような道徳的な物事や、多様な価値観による考え方に対して「おかしい」「間違っている」と子どもが感じても、それを表現できるか、そもそも自信を持ってそう思えるのか、冷静に考えてみてほしいと思います。

 

加えて、多くの子どもたちには家庭環境の外に出ていくまでに「大人の言うことを聞く」という基本姿勢がインストールされています。

それは生まれながらに大人の養育を受けなければ生きていくことができないという身体的状況も関係していますし、ヒトとしての社会的な振る舞いを身近な大人からの模倣によって学ぶということも関係していると思います。

そのため、青年期に差し掛かるまでは、とりあえず大人の言うことを聞くという姿勢はほぼ無意識的に行われることが多くなります。(何らかの問題を抱えていて反抗的な態度を取っている子どももいますが、むしろ彼らは他の子どもたちより強く「大人が正しい」という期待を抱いているのではないでしょうか。)

 

批判力はひとつの能力です。批判をするためには、何が良くて何がおかしいと感じられるのか、それらを分析する力、また論理的に筋道立てて反論する力が必要です。それらは一朝一夕で身に付くものでもましてや生まれながらに備わっているものでもありません。

子どもが成長していく中で、周囲の大人の言動や姿勢から、少しずつ好ましい価値観を自ら形成し、学び続けるしかないのです。

そのためには周りの大人は、子どもに信頼される必要があります。

 

また、別の側面から見てみると、身近にいる大人を信頼している子どもは、大人の言うことを良く聞きます。逆に言えば、青年期に差し掛かるまでは、自分と深く関わっている大人―例えば、親、先生など―の言動を肯定的に捉えようと努力します。

あの父親を信頼して机から倒れ落ちた子どものように、間違うリスクよりも信頼の方を重視するのです。

そのため、子どもに関わる大人の責任は重大なのです。

 

子どもに何らかのメッセージを送るならば、それが大人として子どもたちから信頼されるに足るものか、子どもの良識を育む妨げになっていないか、十分に吟味する必要があるのは以上のような理由からです。

 

 

 

 

どうながダック

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どうながダック

永田  力  作・絵

福音館書店

 

青年期に出会った絵本です。

書店で見かけ、すっかり気に入ってしまいました。(画像は月刊誌のものですが、書店にあったのはハードカバー版で、そちらを購入しました。)

福音館書店の「こどものとも年中向き」シリーズですから、本来、4~5歳の子どもたちの読者を想定して作られた絵本です。(最初は「こどものとも」として発表されましたが、その後改めて「こどものとも年中向き」として出版されたようです。)

しかし、この絵本、小さな子どもより思春期を過ぎたあたりからの読者の方がファンが多いかもしれません。

 

全編、主人公のダックスフンドのモノローグで綴られたストーリーです。

彼は幼少期から、2羽のアヒルといっしょに飼われています。そのアヒルたちからのいじめに耐え、成長する主人公ですが…

 

昔話のような勧善懲悪や、輝かしいハッピーエンドを迎える訳ではありません。

淡々と過ぎ行く日常と、残酷なまでに静かでリアルな展開に、驚かされます。

しかも、画面も、彩度の低い一色のみの背景に、ほとんど輪郭だけの控えめな描かれ方の登場人物という、大人向けの小説の挿絵のような雰囲気なのです。

この絵本を読んだ小さな読者は、ダックスフンドの心情とその行動の意味をどこまで理解できるでしょうか。

 

ひょっとしたら、小さな読者は、なぜダックスフンドが派手な行動を起こさないのか、アヒルたちはなぜいつまでも態度を改めようとしないのか、不思議に思うかもしれません。

しかし、青年は知っています。

自分が魔法のように変身したり、相手が都合良く改心したりはしないことを。

それでも、そのような世の中で、自分なりの善を求めて生きていくしかないことを。

ダックスフンドの目の前にはさまざまな選択肢があったのに、正直でありたい、善良でありたいという譲れない一線を守り抜く。そのためにがっかりする。だけどそれは本当の失望ではなく、むしろ安堵とかすかな、しかし確かな希望なのだと胸を張って生きていく…

 

そのようなダックスフンドに自分を重ね合わせ、これで良いのだと言い聞かせる。

青年期の私には、この絵本は心に染み入る大切な一冊でした。

 

この絵本の初版は1966年。日本の創作絵本の黎明期に当たります。(福音館書店が「こどものとも」を発行したのはその10年前ですが、日本ではまだまだ創作絵本は手探り状態だったようです。)

試行錯誤の末に作られたこの絵本が、場合によっては、幼児期の人間の共感を得るよりも、青年期以降の人間のカタルシスとなるとは、作者も思いもよらなかったかもしれません。あるいは、連続した人格への尊重がわざとこのような作品を生み出したのか…

いずれにしても、この頃の絵本には、「子どもだまし」から脱却しようとする骨太な絵本が多く見受けられるような気がします。

そのような絵本の中でも、こちらの一冊はとりわけシビアな作品です。

 

当時の子どもたちがすでに老齢に差し掛かるほどの年月が経ちました。

その間に日本では数多くの絵本が出版され、子どもという読者がどのように絵本を読むのか、かなりの量のデータが集まってきました。

そうして今や私たちの周りには「子どもだまし」ではない、しかし子どもの心の発達に寄り添った絵本がたくさんあります。

そのような中で、この地味な絵本は、小さな読者に親しく受け入れられているのでしょうか。

少なくとも、もともと月刊誌であったこの本がハードカバーとなって出版された経緯を思えば、この本は子どもの読者に一定の人気があったということです。

 

私の感触では、小さな読者の多くはこの絵本をその場で繰り返し読むことは少ない気がします。

しかし、その記号的なほどにシンプルな絵をところどころ不思議に思ったり、エピソードを断片的に捉えたりしたことは印象に残っているかもしれません。

そしてそのまま心の奥深くにそっとしまわれます。

 

幼少期にこの絵本を幼稚園で読んでもらったという大人に、何十年か振りにこの絵本を読んでもらい感想を聞いてみました。

すると、この絵本の内容を覚えていたわけではなかったのに、自分が今までこのダックスフンドのように考え、行動してきたことに気付いたそうです。

 

決して派手なところがなく、しかも白目の犬に見つめられる表紙のため、子どもたちの手に取られることが少ないようなこの絵本。だけど長く読み継がれている理由が分かるような気がします。

 

月刊誌で終わらずに、書籍になって何十年も経ってから書店に並んだおかげで、私はこの味わい深い絵本に出会えました。

これからも大切に読みたい一冊です。